石部の昔語り
2013年に常葉大学の学生が制作した【聞き書き「半島の旅」 ~石部衆の暮らし~】から昔の石部集落の暮しを一部抜粋してご紹介します。
道路がなかったから、学校へは山道を1時間もかけて歩いてったんだよ
わたしらが子どもの頃は、石部にも三浦(さんぽ)小学校があったから、そこへとわたしらは通っていたの。でも、老朽化しちゃったから、山家(やまが)ってとこに新しい小学校ができたんだよ。昭和50年くらいにできたのかなぁ。
石部には小学校しかなかったから、中学校はね、岩科っていうところに通ってたの。その頃はね、道路がなかったから、山道を1時間もかけて歩いてったんだよ。
当時は、まだ終戦後だったからね、雨なんか降った時は大変だったよ。今みたいに長靴なんてないからね、下駄とか藁草履を履いて行った覚えがある。今では考えられないね。想像もできないでしょ。山を越えるのに1時間もかかったんだよ。
(80代・民宿のおばあちゃん)
自給自足が当たり前だよ
わたしらが子どもの頃はさ、ガスもなかったんだよ。家に電気はついてたけど。ガスがないから、山から燃し木を拾って来たね。お風呂を沸かすにも、何かを煮るにも、燃し木を拾ってきちゃあ、それで燃してたね。
ほいで、石部はね、民宿をやる前は、半農半漁だったの。ここってそんなに勤める場所がないでしょ。だから、女の人がおもになって百姓をしてたんだよ。野菜もお米も、みんな自分のうちで作ったのを食べてた。自給自足が当たり前だよ。
終戦後なんかはさ、都会の人たちは、食べるものがなくて、うんと困ったみたいだけどさ。わたしらはみんな、うちで作ってたからね、困んなかった。今みたいに、イノシシとかサルとかも畑にまで来なかったからね。サツマイモを作っても、何を作っても、いっぱいできたね。
(80代・民宿のおばあちゃん)
ポンポン船っていう船があったの
わたしらが民宿をやってた頃はね、宣伝費なんて1銭もかけなかった
民宿が始まったのは、温泉が出て、道路が通るようになってからだから、昭和41年くらいじゃないかしら。うちはさ、昭和47年から民宿を始めたのね。けど、うちよりも早く始めた民宿が、10軒ぐらいあったかなぁ。
民宿を始めた当時は、すごい忙しかったの。石部の集落はさ、全部で80軒くらいあるのよ。一番盛りの時には、民宿が43軒もありましたよ。
民宿以外にも、浜でボートを貸すのを商売にしてる人とかさ、食堂やる人とかもいたわけ。それにお店屋さんも、その頃は、豆腐屋さんと「みかどや」さん(鮮魚を中心とする食料品店)もあったから、にぎやかだったねぇ。
わたしらが民宿をやってた頃はね、宣伝費なんて1銭もかけなかった。1銭もかけないで口コミだけで、お客さんが来てくれたんだよ。来てくれたお客さんが、「あそこの民宿良かったよ」って他の人に宣伝してくれたからさ。だもんで、それを聞いた人が、「じゃあ俺も行こうかな」って感じでね、そんな風にして来てくれた。それでもやってけたもんね。
その頃は、お客さんが多くて忙しかったから、民宿をやってない若い人をお手伝いさんとして雇ってたねぇ。だから、みんなが潤ったわけだよね。あの頃は良かったよ。
(80代・民宿のおばあちゃん)
男の人の仕事っていったら大工さんか、左官屋さんか、カツオ船に乗るか
その当時の男の人の仕事っていったら大工さんか、左官屋さんか、カツオ船に乗るか、炭焼きさんくらいなもんだよ。
とくに、炭焼きさんはいっぱいいたんですよ。石部って、そんなに勤めるとこがないからね。炭焼きさんが山の木を切ると、すぐにまた新しい実がなるの。だから、炭焼きさんがやってた頃は、イノシシとかサルもさ、食べるもんが山にいっぱいあったわけ。だけど、今はね、炭焼きさんがいなくなって、木が大きくなっちゃったから、山に食べものがなくなってきたの。だから、イノシシとかサルが民家の方に来るようになったんだよね。
ほいで、伊浜の波勝崎に野猿公園っていうサルの公園があるんですよ。伊浜の人がサルを飼い馴らして、民宿のお客さんが見に行くような施設を作っちゃったから、サルがすごい増えたんですよ。だもんで、仲間外れになったサルが、石部の畑の方に食べに来るわけ。楽して食べる方法をサルが覚えちゃったからさ、サツマイモを作っても、スイカを作っても、トウモロコシを作っても、何を作っても、みんな食べちゃう。
動物との知恵比べだよ。駆除もやるんだけどね。だけど、群れが大きいから駆除しきれないですよね。こんなにイノシシとかサルが来て作物を食べちゃうのはね、ここんとこ10~20年ぐらいかなぁ。
(80代・民宿のおばあちゃん)
キビナゴっていうちっちゃい魚がすごい獲れる時もあるんですよ
イノシシとかサルは、ここ10~20年で増えたけど、魚はだんだん減ってきたね。定置網漁をやらなくなったからね。魚の溜まり場がなくなって、釣れる率がうんと低くなったみたい。魚がしょっちゅう来てた頃は、釣りのお客さんもよく来てくれたけど。
でも、キビナゴっていうちっちゃい魚がすごい獲れる時もあるんですよ。キビナゴが来る5月頃になるとさ、地曳網の世話役をやってる人が、マイクで「キビナゴー!」って叫ぶの。キンコンカンコンって鐘をいっぱい鳴らしてね。放送すると、1軒で1人ずつね、浜へ出て来るの。ほいで、船を下ろして、網からキビナゴを獲るわけ。その時、バケツで何杯もキビナゴが獲れるから、来てない人にも分けてあげるの。
岩地でキビナゴがたくさん獲れると、石部へくれるんですよ。だから、石部で獲れた時は、お返しで岩地のむらの人にあげるの。去年、一昨年だっけかな、キビナゴがものすごい獲れてね、それこそ1日がかりで獲ったよ。
(80代・民宿のおばあちゃん)
やっぱり石部の元は、石火石のあるここだからね
石火石を守っていても、伊志夫神社のことは、わからないですよ。石火石は、神社が向こうに建つ前までのことだから。大水で、元の神社が全部流されちゃって、川向こうに神社を移しちゃったけど、石火石は、それよりずっと前のことだから。オイワとメイワは、石部が拓ける前からのことで、ここで石部が拓けたらしいからね。われわれだって知らないからね。古文書が区にあるんだけど、やっぱり見たらね、今うちに書いてあるのと同じことが書かれているの。だから、やっぱり石部の元は、石火石のあるここだからね。隣の家はメイワで、おらの家のがオイワだからね。
昔は、石火石で火を灯していただけ。その謂れは、いろいろあるんだよね。松崎の仁科村の海賊が、石部に攻めてきた。その頃、大洪水後、間もなかったので、この辺り一帯、真平だったからね。今、オイワがある辺りから海までが全部見通せたらしいですよ。海賊が竹槍持って攻めて行ったらよ、オイワサンまで来たけども高いから越せない。地元の人たちが、石の上にも乗っかってるわけですよ。
昼間だけでは決着がつかなくて、海賊がいったん引き上げて、夜になってから、もう一度来ろうってことになった。海賊が、夜になって再び石部の浜に降りたら、ちょうど石火石の上に火が燃えているところが見えたんだって。「これはただもんじゃない、普通の石じゃない」、「この近くには神様がいる」ってことで帰って行ったという。オイワサンの岩穴のところに神火が見えたから、神さんが乗っかっているんじゃないかと。別に怖がったってね、火が見えたから怖がったんじゃないかと。ほら、昔は火打ち石でやったでしょ、火を燃して、ここに住んでるっていうね。
地元の人間もあの前を通るのを怖がったんだってことは聞いてるね。村の人は、石火石の周りをあんまり通んなかったらしいですよ。オイワサンには、火を燃した跡が今でも残っている。誰しも、岩穴を見たさに、オイワサンの上に登るですよ、石はどうでもいいわけ。火を燃したことにメイワは関係ない、オイワだけね。今では、石火石の上で火を焚くことはないです。おらが、子どもの頃には、すでに火を燃してなかったよ。
(80代・石火石の守り人のおじいちゃん)
映画を見るとこもないし、年に4 回の神社の祭が楽しみ
石部の村は、9 つの組に分かれてるわけよ。浜組とか、横丁組、坂下が上下あって、お寺の傍が門前組で、その上が向組、おびらんの上が山家です。そして、各組で、集いをやってたんですよね。組って昔から決まってたね。昔から、何やるにしても組ごとにやってたわけ。お葬式の手伝いとかも、やっぱり組の人は、全部来てもらってとかね。何かあったら、組の人が全部手伝うってやってたんです。神社の祀りごとも、各組でやってたんですけど、もう今みんな若い人だから、祀りごとをやんなくなっちゃって。
昔はさ、村の中に遊びに行くとこもないし、映画を見るとこもないし、年に4 回の神社の祭が楽しみで。当番制で順番にしてね、組ごとに前の晩に集まって、当番の家が、お茶を沸かして、お菓子の準備をして、みんなで世間話をして一晩過ごして、次の朝にお参りしたの。それで、組の中の長老が、祝詞をあげてって、やってたんですよ。うちの組の長老さんが、「これは絶対なくしちゃダメ」って、祝詞を書いたものをね、大事に取っといてくれたわけ。
今は、みんなで集まんないけど、家ごとに祀りごとをする。うちが今度やったら、この次は、この人って順番でするんだよ。たとえば、うちが当番なら、うちでお参りして、朝のお宮さんのお参りは行ける人が全部行ったわけ。今も、お参りに行ってます。うちの組には、神さまの掛け軸があるわけ。昔からのぼろぼろになったのもあるし、このごろ行って新しく買ってきたのもある。今、組長がうちだから、うちで預かってるんです。
(80代・石火石の守り人のおばあちゃん)
冬になると、すごいのよ西風が
昔は、石部は火事が多かったみたいです。昔話でさ。お風呂燃やしたでしょ。冬になると、すごいのよ西風が。冬に来たことある? 都会からここへ引っ越してきた人はさ、「ここの集落は、地獄と極楽と年に2 回ある」って言う。冬は地獄だって。夏になれば極楽だって。海があるし。そんなこと言った人がいたね。
明日、浜囲いなんだけどね。昔は、笹で立ててね、浜囲いをやったんですよ。今、防波堤ができたでしょ。あそこ、ずーっと両方ね。一軒の家で、一把ずつ笹を刈って出すんです。それを浜囲いっていうの、笹で、浜の囲いを作ったんです。石部は、風がすごくて、家へと砂が舞ってくるから、砂が飛ぶのを防ぐためにね、浜囲いっていうのをする。防波堤ができたけど、砂を巻き上げちゃって、浜の砂浜がなくなっちゃうから、今でも、浜囲いっていうのをやるんですよ。防波堤の浜へ流れた砂をよけるためにねするんだけど、でも砂が来ますねえ。
浜囲いは、午前中いっぱいかかるぐらいかしら。わたしらは、16 歳くらいから、浜囲いを手伝った。50、60 年ぐらい経ってるのかな。そんな若い時から手伝った。その浜囲いの手伝いに入ったばっかの年、寒いのってなんの。
(80代・石火石の守り人のおばあちゃん)
マグロ漁船に乗って世界中どこにでもいったよ
小学校を卒業した後、17、8 歳の時に漁師になった。18 歳で海に出て、船の雑用をして、38 歳でマグロ漁船の乗組員になったね。それを20 年間続けた。だから、俺は棚田のことはあまり知らないね。ずっと漁師をやっていたからさ、漁のことならわかるよ。
商売だからさ、マグロ漁船に乗って世界中どこにでもいったよ。一度、航海したら三カ月は帰ってこないね。それを1 年間続けたさ。その後は、半年航海になってね、半年間は海に出たままになる。だから、石部には半年に1 回しか帰って来れなかったね。昔は、そういう航海だったから。漁師をしてた頃は、カツオやサンマ、サバにマグロ何でも獲ったよ。
それから、タンカー船に乗っていた時は、油(石油)を買うために、東京、川崎、横浜に行ってね。それで今度は、プロパン船にも乗ってさ、第一航路で日本海を一周してさ。
プロパン船で、日本を4 回も廻ったよ。あと、北海道の稚内にも行ってきたよ。日本の港には、ほとんど行ったね。
海外では韓国、台湾、香港、ベトナムにも行ったさ。ちょうど、ベトナム戦争があってね、怖かったよ。ベトナム戦争が終わった後、すぐにベトナムに上陸してね。その時、ポリス、警察がさ、銃を構えてね、みんな身体検査されるんだよ。その頃、身体検査をしないと上陸できなかったよ。
ほかには、南半球のオーストラリアやタスマニア、シンガポールにも行ってきたね。ほかにも船一艘で、大島とか八丈島とか奄美大島とか、片っぱしから島を渡ったね。沖縄にもカツオ釣りで行ってさ、その島をグルーッと廻ったね。
それから定年になって石部に帰ってきてね。定年後、母ちゃんに、畑仕事を一から教えてもらってね。百姓のことは、みんな覚えたよ。
(80代・元遠洋漁師のおじいちゃん)
この辺はみんな田んぼだったけど、今じゃ田んぼが荒れちゃってさぁ
昔は、この辺はみんな田んぼだったけど、今じゃ田んぼが荒れちゃってさぁ。みんな老人になって、田んぼをやらなくなっちゃったんだよ。若い衆はみんな、よそへ仕事へ出るし。そん中で、田んぼもやってんのは棚田ばっかりだで。ただ、この上に山家組って6~7軒あるが、そのすぐ上に2 軒くらい個人で農業やってる衆がいるくらいだったど。
みんな松崎の方へ出て行ってしまってね。松崎の方も、田んぼをやる人が少なくなったそうで。でも、こっちの棚田にくらべれば、向こうは田んぼが平らだからさ。石部で田んぼ作ってる人は、みんな松崎あたりで田んぼ借りちゃあ、自分の田んぼは、草ぼうぼうになってさあ。昔は、田んぼのない人も、田んぼのある家の小作でもって借りるわけ。それがだんだんあれだ、なくなっちゃってさあ。やっぱりそう、若い衆がいないとダメだ・・・。
昔、カヤ刈りもあったな。カヤ場も、今は、みんなミカン山になったからさぁ。昔は、カヤを燃してさあ、山で火入れをやったけんども。1 年に2 回くらい順番があってさぁ、屋根を葺き替えるの。次はここの人、その次はここの人って、順番に屋根を葺き替えていっただからさあ。山に人が手を入れてただよ。
駐車場の倉庫はあれだよ、炭、木炭を入れてたんだよ。石部じゃテングサも採れないし、何もないもんで、炭を作ってた。その頃は、みんな炭火だったじゃん。だから、木炭を置いておく木炭倉庫が必要だったんだ。今は、駐車場になってるとこだぁ。
(80代・元百姓・漁師のおじいちゃん)
母が、ごじるのみそ汁を作ってくれるわけで。それが忘れられないの。
運動会になると、精がつくって言ってね、母が、ごじるのみそ汁を作ってくれるわけで。それが忘れられないの。そんで、母がやってたから、わたしも子どもに同じことしたのよ。そしたら、こんなにドロドロしたの食べたくないって言うの。「運動会で、こんなまずいもん持ってこないでよ」って言われたの。
それでもう一つ。大師講っていうものがありましたよね。お大師っていう神様。毎月交代で集まるの。村中で大師講をやってたんですよ。お宮さんがないから、お参りには行かないんですけど。昔は、茅葺屋根だから、葺き替えなきゃなんないから、屋根を葺き替える時のために、みんなで積み立てをやってたみたいですよ。当番の人が、みんなからお金を集めてくの。子どもの時は、「今夜は、うちだから、大師さんを呼んでこい」って言われたわけですよ。おしるこを作ったり、まんじゅう作ったりってやったんですよ。みんなでお茶を飲んで、掛け金を集めるのね。村の何かがあると、そこで相談したりとか。
今はやんない、やめちゃった。掛け金とか保険料とか、今は、法律でいろいろあってね、そういうことやっちゃいけないみたいんだね。
(80代・おばあちゃん)
米があれば、海でなんか獲れれば生活できたの
地曳網には、鯛が入ってたりね。お刺身で、一番おいしいのが、アオリイカっていってね。イカの羽がさ、おいしくて。海から獲れるものは、タダだよ。畑は肥料やんなきゃなんないし、何かしなきゃいけないけど。この海はね、太平洋と繋がっているから、何が獲れるかわかんないっつってね。
最近は、大きい魚は来ないね。魚が来そうな時は、毎晩のように、網で囲んで獲って、それを食べてね 昔は、自給自足の生活をしてたわけね。村の人はね、この田んぼで賄えたわけ。昔は、自給自足で、米があれば、海でなんか獲れれば生活できたの。
今は、お金が必要だからね。だから、若い人が、出稼ぎに出たわけ。お父さんたちは、若い時に、遠洋漁業に出てたの、インド洋とかね。年を取ったら、だんだん、やる気がなくなって、漁師もやめちゃったの。若い人が、ついてかなきゃいけないのよ。石部には勤めるところがないから。農協と役場じゃ、働ける人数がしれてるでしょ。だから、村の中は年寄りばっかになっちゃってね。山が荒れちゃってね。
(80代・おばあちゃん)