石部地域のこと

石部地域の変遷

伊豆半島西岸の南部に位置する松崎町は、東西に14・4キロメートル、南北に11・3キロメートル、面積は85・2平方キロメートルで、三方を天城の山稜に囲まれ、西は駿河湾に面しており、人口6235人、世帯数2931(令和3年3月末)の気候穏やかで、伊豆西南海岸の産業・交通・観光の拠点となっている町です。

石部棚田のある「石部地区」は、松崎町南部の三浦地区(岩地、石部、雲見の3地域の総称)の真ん中に位置し、市街地から約6キロメートル駿河湾沿いに南下した入り江と沢沿いに展開する人口185人、世帯数96(令和3年3月末)の小さな集落です。

石部の歴史は古く、集落内にある古社「伊志夫神社」は、延長5年(927年)にまとめられた延喜式にも記載され、古来より石の上で神火を燃やして海上交通に便を与えた石火民族の地であったと考えられています。

※写真資料:岩波写真文庫 85「伊豆の漁村」より

のどかな半農半漁の江戸時代

江戸時代が始まる直前の慶長3年(1598年)の検地で、「168石8斗9合の石高」との記述があり、石部地区は古くから水稲耕作が脈々と続けられて来た地だと考えられます。

江戸時代中期には、「古来より石火村とあるが、天文年間に火災が何回か発生したので火を部に改めた。漁業の盛んな村」との地名の由緒や「176石8斗1升2合の石高」だったことが幕末の文書にあり、棚田を含めた約18ヘクタールの田の耕作と漁業という半農半漁を生業としたのどかな村だったことが想像されます。

炭焼きが兼業となった明治時代

明治22年(1889年)の町村制の施行により、石部村は、岩地、雲見と共に岩科村となります。

明治期の石部は、農閑期の仕事として商品の需要が増していた炭焼きが兼業となり、木炭生産が盛んに行われるようになりました。明治7年(1874年)の石部村産物取調では炭5千俵、明治30年(1897年)には13898俵を数え、明治以降も地場産業随一の地位を戦後まで続け、昭和20年代に生産のピークを向かえ、昭和30代にはガス、石油の燃料革命のため衰退します。

陸の孤島での出稼ぎと自給自足の昭和初期~昭和30年代

昭和31年(1956年)に石部が所属する岩科村は松崎町へ編入されました。しかし、いまだ車の通る道がなく、日に3回海上を通行するポンポン蒸気船で松崎から25分を要する陸の孤島でした。

昭和初期からディーゼルエンジンが開発され、岩地地区では大型漁船によるカツオやマグロの遠洋漁業が栄え、雲見地区では天草景気に沸きます。

昭和30年代の石部は、戸数130、人口640 ~650人で、女性は田畑を耕し、男性は炭焼き又は、岩地の漁船に乗り込み、戦中、戦後と細々と生計を立てていました。岩地、雲見の両隣地区の繁栄をよそに、石部は18ヘクタールの田んぼ、12ヘクタールの畑、なかでも集落から1キロほど上がった赤根田地区の祖先が苦労して切り開いた10ヘクタールの棚田を大切に受け継ぎ、農耕中心の自給自足の生活を守っていました。

急な傾斜での棚田の耕作は大変だったので、田植えや稲刈り、脱穀作業のときなどは、親戚どうし、隣近所を助け合う「結ゆい」のきずなの強い地域でした。

※写真資料:岩波写真文庫 85「伊豆の漁村」より

高度経済成長の波が押し寄せる昭和40年代

昭和40年代の道路開通を機に、伊豆周遊が可能となり、三浦地区は伊豆の秘境として一躍脚光を浴びます。石部・岩地の温泉湧出に続き、三浦地区への定期バス運行、空前の海水浴ブームが重なって石部を訪れる観光客が飛躍的に増え、江戸時代から続く半農半漁の自給自足的生活から観光業への大きなシフトを迫られることになります。

民宿ラッシュと棚田が荒廃した昭和50年~60年代

押し寄せる観光客の受け入れのため石部地区でも競うように民宿経営に乗り出し、建築ラッシュが続いた民宿は、最盛期には46軒を数え、地域はとても潤いました。

一方、昭和45年(1970年)から始まる減反政策の影響や、海上交通から道路交通への移行による松崎町中心部付近への平地耕作が可能になったこともあり、生産性が低く作業が困難な棚田は徐々に荒廃し、昔ながらの石部の生活は急速に失われてきました。

棚田の復活とのどかな暮らし

平成に入りバブル崩壊や経済の低迷により海水浴ブームも落ち着き、石部地域も民宿が10数軒となり、西伊豆らしい静かでのんびりとした生活を取り戻しました。そして棚田の復活と共に、田植祭や収穫祭が都市住民との交流の場になり、オーナーとして訪れる常連さんはおじいちゃん、おばあちゃんと仲良しになり「第二のふるさと」になっています。