復活の物語
江戸時代から受け継がれた棚田
石部棚田の歴史は古く、江戸時代には棚田の上にある白崩山が大崩落し、山津波が発生して、一体の棚田をすべて吞み込み石河原と化してしまったそうです。そして、災害に対して先人の方々は、20年間もの間年貢を免除され、復田したと伝えられています。
・文政7年2月(1824年)「荒地起返不能ニ付年貢用捨願」
・文政7年8月(1824年)「領主の借財に領民驚く」
・天保8年春(1837年)「困窮米代金貸付帳」
(静岡県歴史文化情報センター及び石部区所蔵の古文書より)
つまり江戸時代の文政年間には、すでに石部棚田は存在しており、それ以前いつ頃棚田が作られたかは定かではありません。
昭和の最盛期と平成の荒廃
※写真資料:岩波写真文庫 85「伊豆の漁村」より
昭和30年代には、棚田は枚数約千枚、総面積は10haにもおよび、女性は田畑を耕し、男性は炭焼き又は、岩地の漁船に乗り込み、農耕中心の自給自足の生活を守っていました。
しかし、高度経済成長の時代変化とともに地域は民宿業などの観光業にシフトしていきます。そして、減反政策や農家の高齢化・担い手不足、農作業の苦しさ、生産性の低さにより荒廃の一途をたどり、5年から20年も放置された結果、耕作放棄率90%以上の山林原野と化していました。
石部の人々の心には、かつて棚田が地域の活気の源であり、駿河湾から眺めた稲穂が黄金色に輝く棚田の風景が焼き付いていましたが、時代の趨勢とともに放棄され荒廃していった棚田を見るたびに、残念な思いが広がっていました。
棚田を核とした新たな地域づくり
平成年代はバブル崩壊に始まり、世界的な金融危機、大型化する自然災害やテロなど現代文明を脅かす出来事が多発していきます。平成10年代には、そんな文明への閉塞感から、エコロジー、リサイクル、自然エネルギー、地産地消、里山資本などが徐々に注目されます。
全国の棚田保全の機運も盛り上がりを見せ始め、石部地区でも先祖が残してくれた棚田の荒廃を何とかしたいという想いが募り「棚田を核とした新たな地域づくり」の取り組みが始まりました。そして平成11年に「松崎町石部地区棚田保全推進委員会」が設立され、翌12年からついに住民総出の棚田の復田作業が開始したのでした。
しかし、石部棚田のように最長で20年もの間、手つかずで放棄された大規模な棚田を元の状態に戻すということは、全国的にも類例のない無謀なチャレンジといえました。
そもそも、石部棚田の畦を支える「石積み」や棚田の底にある粘土で作られた「盤」、棚田の地下を走る「水路構造」が崩壊していたら、手の付けようがなかったかもしれません。
石部棚田の復田を開始できたのは、まずはそれらの棚田の基盤を強固に築いてくれていた石部の先人たちのおかげともいえました。
蘇った石部棚田
平成12年2月には「しずおか棚田くらぶ(現・しずおか棚田・里地くらぶ)」のメンバーが、ボランティアとして作業を手伝いに来るようになります。刈っては焼き、焼いては刈り取り、作業は連日行われました。
区民総参加、ボランティア総数300人、100日余を持って約4ヘクタールの雑木雑草を刈り取り、焼却作業が終わり、約12アールの棚田がついに姿を現します。そして4月には田んぼに水が入り、代掻き、畦付け、畦塗りなどの水田作りが、長年棚田を守って来た石部のお母さんたちを中心に始まったのです。
平成12年5月には10数年ぶりに甦った田んぼで、「しずおか棚田くらぶ」のメンバーを迎え、田植えを行いました。また、棚田の麓にあった三浦小学校(平成19年に廃校。松崎小学校に統合)の生徒たちも田植えに参加し、1年前には誰も寄り付かない荒地だった棚田に、子供たちの賑やかな声とどこからともなく戻ってきたカエルたちの大合唱が響いたのです。
棚田を覆っていた茅を使って、茅葺きの作業小屋も完成しました。「茅葺屋根を作る技術を伝え、残したい」との考えから老人会の協力を得て作られたのです。平成13年の春には約60アール、平成14年には約10アールの棚田を復田し、復活を期した日から3年で約80アールの棚田が蘇ったのです。